どろり、と。体に纏わりつく倦怠感が鬱陶しい。まるで泥のように私を包囲するそれらにもうこれ以上動くことは億劫なほどだった。肩をほんの少し回せば、ごきりと骨が音を立てる。そうしてその部分からぱらぱらと張り付いた泥が砂になって、零れ落ちた気がした。
 テニス部に入ってから、勉強時間は大分減ってしまった。父は厳しいひとだ。私が成績を落とさないことを条件に、テニス部の入部を認めた。私は医者になることを、幼いころから何の疑問も抱かず当然のことのように目指してきたから、父に反してテニス部に入部した時は本当に、自分自身何をしているのか実の所よくわかっていなかったのだと今になれば思う。
 けれど、それが間違っていたとは思わない。
 厳しいけれど確かな充実感。勉強ばかりだった毎日にほんの少しだけ開いた光。上を目指すのは途方も無いことのように見えてけれど、負けず嫌いな私の性に、実力主義の立海大テニス部は本当によく合っていた。
 レギュラーになりました。報告することは義務だった。親の金で通わせて貰っている学校で、何があったのかを報告することは当然のことだ。けれど父の反応はいつもと同じで本当に薄くて、それは仕方の無いことだったのだけれど私は少し悲しかった。父は私に勉強と将来医者になること以外何も求めていない。改めて思い知らされた瞬間だった。新聞を畳んでそうかと、彼はそれしか呟かなかった。それで次の模試の準備はしているのかと続いた言葉に私は曖昧に頷いた。そうだ、模試が近いことを失念していた。
 母は嬉しそうに、微笑んでくれた。妹は目を輝かせて、観に行きたいと言ってくれた。
 だからそれだけで私は充分だった。

 そして今日も私は練習と勉強を、両立する。

 練習で疲れた体を引き摺って、帰宅後も就寝までは勉強だ。私は別に天才肌な訳ではない。何もせずとも勉強が出来る訳では無い。だから減った勉強時間を取り戻す為には、休憩時間、昼休み、帰宅後、休日、全ての時間をそこに宛てるしか他に思いつかなかった。勿論、効率よく勉強すること、それが大前提ではあるのだけれど。
 しかし今日は既に限界点を突破してしまったらしい。体がいうことをきいてくれない。腕がもう、動かない。利き手はテニスでも勉強でも酷使してしまうのだからそれも当然のことではあるのだが。就寝まではと思っていた勉強時間にはまだ、足りない。生憎睡魔には嫌われてしまっているようで、未だはっきりと意識は覚醒している。

 瞼を閉じてごろりとベッドに横になる。じわり、じわりと、黒い闇が視界を覆って体がずっぽりと土に埋まってしまったかのような感覚に陥る。寧ろ今、私の体が土くれのようだった。力が入らない。本当に、ああ、これが疲れた、と云う事なのだと身を以って実感する。実感、した。
 その瞬間に耳をついた携帯の着信音。重い腕を持ち上げて手に取ればディスプレイには見慣れた名前。

「はい、」
『柳生、寝とった?』
「いいえ、起きていましたよ」

 声が、疲れとう。

 と言った彼の声が本当に優しくて涙が出そうになった。撫でられている訳でも無いのに彼の手のぬくもりを、感じて本当に、たまらなくなる。溶け出してゆく。彼の声は今の私には恐らく水そのものだった。枯れた大地に染み渡る、じわりじわりと、溶かして往く、水。

「大丈夫ですよ、仁王くんこそどうしたのです」

 問い掛けには一瞬の間。
 彼は何時もと何ら変わらぬ声のトーンで本当に、自然に私の名を呼ぶからうっかりと。

『柳生の声が、聞きとうなっただけ』

 おやすみ、無理せんでな、と。

 それだけ残して途切れた電話。脳裏で繰り返されるのは彼が私を呼んだ声、声、声の波だった。けれど実際に繰り返されているのはツーツー云う無機質な音だ。
 私は布団に突っ伏してほんの少しだけ泣いた。そのまま泥のように動かない手足を投げ出して思考の一切を拒絶すれば訪れるのは暗闇で、それはとても穏やかな眠りだった。





おやすみ、世界

08.08.01 H