「参謀」
呼ぶ声に反応して揺れる睫毛を間近で見詰めた。ゆっくりと瞼が開かれ、露わになってゆく黒曜石。もしも触れる事が叶うなら、それは恐らく無機質な硝子のように冷たいのだろうと想像して、仁王はほんの少し怖くなった。
「……どう、した?」
至近距離で紡がれた言葉。吐息が前髪を揺らす。触れそうな程の距離に認識した人間の存在に、柳の双眸が僅か驚きを滲ませる。冷静沈着な普段の彼を知っているだけに、只その瞬間を自らが作り出した事に優越を覚えた。彼のポーカーフェイスを崩したのだ。
昼休み、忘れ物を取りに訪れた部室の中、珍しく机に突っ伏して眠っていた柳。換気の為か開けたままの窓から吹き込んで来た風にさらりと黒髪が揺れて、ほんの少し覗いた表情は酷く穏やかだった。まるで人形か、死人のように。この世の何もかもを超越した所に居る、触れてはならない物のように思えたのは恐らく前日に見た映画の影響だろう。
「何か、吃驚したんじゃよ」
乗り出していた上体を引きすとんと柳の前の席に腰を下ろす。
零れた言葉は本音で、柳はその真意を測り損ねて言葉を喉の奥に留める。寝起きの為か何時もより遅い彼の反応に、仁王は口の端を擡げる。に、と浮かべた笑みは人の悪いもので、これも又優越から来る表情なのだと自己分析する。最近の己は如何にも不可解な感情に揺れ動かされていると、仁王は理解していた。
その原因は目の前で僅か首を傾げているその人で、自らの葛藤とのギャップに肩を竦める。
「参謀の居眠りなん、初めて見たからのう」
手を伸ばして黒髪に触れる。つるりと手の中に吸い付く様な感触。真っ直ぐに見据えた先、黒々と光る双眸に己の姿が二つ。そこに在る世界はただ二人だけが存在している空間だった。一房手に取った前髪に、再度上体を起こして口付ける。
はっと開かれた双眸の中に悪戯な笑みを浮かべた己の姿が在る。それだけで取り敢えず今日の所は満足だった。
「驚いた」
ニィ、と再度笑みを象れば、柳はしまったと、瞬きを返す。静かに輝く双眸が全てを物語っていた。二人の間で止まった時に、触れた手のひらの温度にそこから熱が、広がる。
ときのなか。
08.11.29 H