「もう、知らんで」

 謙也がひどく低い声で財前を一瞥した。見据える双眸は冷え切っていて、ああ、これが謙也先輩の怒りなのか、とぼんやり思う。掴まれた腕が、痛い。ぎりりと力を込められて眉を寄せるけれど、財前は一言も発しなかった。何も言わない様子に舌打ちをして、手を離した謙也はくるりと背を向けた。六月も終わりだと言うのに梅雨はまだ、あけていない。
 ぐずついた天気では、無かった。寧ろもう夏ではないのかと疑いたくなるような快晴。太陽の光に肌がじりじりと焼け付くような感覚を覚えて、そっと腕を摩った。遠くなる後姿を眺めながら、今の今まで掴まれていた、腕。手のひらから滲む熱が派生したのか、どうにも体が、熱い。

 発端は本当に些細な事だ。いや、些細な事の筈だった。と言った方がより正確だろう。いつも通りの昼休み。校舎の陰で二人で昼食を取っていて、ただ少し違ったのは、いつもより謙也が少し饒舌で、何故か財前が下手な好奇心に駆られていた。それだけの筈だった。なのにこの現状は、何だ。
 財前は今ひとりぼっちで、校舎裏に佇んでいて、びゅうと吹いた風に荒らされた前髪が目に掛かって鬱陶しい。くしゃりと掴んでしまえば、視界は己の手によって閉鎖されてしまった。
(アホ、……分かれや)
 心の中でなら幾らでも罵倒できた。しかし今回一方的に悪いのは、財前の方だ。だってこの現状は、財前が望んで出来たモノ、だから。いつもいつも、優しかったりヘタレだったり、くしゃくしゃに笑っている顔しか知らなかった謙也の、違う顔を見たいと、そう望んでしまったからこその腕の痛みと、熱だ。(あんな、風に)怒る謙也を見たいと願ったから。
 ぞくりと粟立つ感覚は、何だろう。本当は分かっている、けれど明確すぎる感覚に財前はほんの少し慄いていた。だって、まさか。こんな風に背を震わせることになるだなんて。(俺、ただの変態やん、これ)その場にへたり込んで、財前は溜息を吐いた。ふうう、と息を吐き出して、体を廻る熱を抑えるようにぎゅうと腕を掴む。(謙也先輩の、アホ)

 怒った顔が見たい、だなんて思わなければ良かった。顔を上げれば、校舎裏。眩しい太陽の光がぼんやりと花を照らしている。あれは確か、そうだ。(アマリリス、やっけ)脳裏に思い描いた名前を反芻して、飲み込む。教えてくれたのは謙也だった。母が同じ花を庭で育てているのだと、確か、花言葉まで言っていて、何や女子みたいやって、揶揄ったことがあった。あれも確か、昼下がり。あの時も太陽は中天にあって、謙也は笑っていた。
 ぞくりと体が疼く。けれど本当に怒って行ってしまった謙也は、顔を上げたその先に居ない。(嘘、やろ。ホンマに、ホンマに?)謙也が居ない事実がずしりと圧し掛かってきて、財前は。

 立ち上がって、駆け出した。食べ終わったパンの袋をくしゃりと手のひらの中で握り潰して。(こんなん、俺のキャラやない、のに)けれど謙也が居なくて、ここに、居なくて。いつも走っているのは謙也の役目だったけれど、当の本人が居ないのならば財前が走るしかない。視界の端を揺れる花が過ぎる。校舎裏から、校舎の表に回って、昇降口に辿り着いて、昼休み終わりのざわめいた場所で視線を巡らせて、探す。見慣れた後姿。一目でわかる、明るい、髪色。
「謙也、先輩」
 服を後ろから掴んで、つんのめった背中に顔ごとぶつかる。慌てた声が頭上から降ってくる。(ああ、ホンモノ、や)慌てて振り返った謙也は困ったように財前の手を引いて階段の隅へと足早に駆け出す。廊下は走るなよとか、笑み交じりの同級生の声が聞こえた気がするけれど謙也はひらりと手を振って笑っていた。陰になる場所。見えない、位置。ざわめきから隔離された空間で、謙也はふうと一息吐いて、財前は肩で息をしながら、向き合った。
「何やねん……、そんな泣きそうな顔、すんなや」
「せや、かて」
 謝罪の言葉を呟く間も無く抱き締められて腕の中で呼吸が止まった。小さな声で言い損ねたごめんなさい、を紡いだ唇を塞がれて、幸福に眩暈がしそうだ。





さよならアマリリス

09.08.20 H