追い詰められたら、動けないに決まってる。

 体格差も身長差も、認めたくは無かったが嫌と云う程理解はしていた。だから謙也が本気で財前を捕まえようと思えば、その手を捻り上げて背中を封じてしまえば良い。それを正しく実行しようとして両手をロッカーについた謙也の、腕の中に閉じ込められて囲われて、狭い空間の中で、財前は息をしようと必死だった。平静を装うのが困難で、どうしようも無く早鐘を打つ心臓を握り潰したい思いでいっぱいだ。だってそうすればきっとこの火照りも冷める。けれど財前はその術を持たない。無防備に、白日の下に、謙也の真っ直ぐな視線に晒されている。

 何が原因で、こんな事態に陥って居るのかと言えば理由は思い出せないくらい下らないことだ。いや、思い出せはするけれど、思わず笑ってしまいそうな程、小さな小さな、切欠。
 状況がいけなかったのかもしれない。恐らく。教室に忘れ物をしたからと、部活終了後着替えもせず足早に教室へ向かい、帰って来た財前を待っていたのは、明日鍵当番の謙也だけだった。扉を開けて目にしたのは、制服姿で机に突っ伏してどうやら眠っているらしい、姿。余りにも静か過ぎる室内に踏み入ることを躊躇したがそうも言っていられない。荷物も全て部室の中だし、着替えも済んでいないし、何より自分を待ってくれていた先輩を置いて帰る訳にはいかない。
 一つ小さな溜息を吐いて、部室へ踏み入る。しかし、すーすーと小さな寝息を立てながら眠り込んでいる謙也が気付く気配は無い。足元に置かれた鞄はきっちり閉じられていて、既に帰り支度が済んでいることは明らかだった。財前は自らのロッカーを静かに開けて黙々と帰り支度を始める。なるべく大きな音を立てないように。これでも一応気の遣うべき場所くらいは心得ているつもりだ。ハーフパンツを脱いで、ズボンに履き変えてベルトを締めて。ゆったりと流れる時間に、財前は小さな呼気を漏らす。着替えと鞄へ荷物を入れ終えて振り返った先には、未だ机に突っ伏したままの謙也の姿が有った。
 鞄を床に放り出したまま、財前は机を挟んで謙也を正面から眺める。そうして小さく揺れる髪に、そっと触れた、それが切欠だった。多分。そうして寝惚け眼と云うには随分としっかりした双眸が開かれて、真っ直ぐに財前を捉えたのだ。ひゅうと喉が鳴って、意図せぬ出来事に頭が真っ白になる。目を瞠って手を引いて、思わず後ろへと後退した財前を、のっそりと起き上がった謙也が思わず追いかけた。反射的に。逃げる者を追う、スピードでは絶対に、負けない。何故かも理解出来ないままロッカーに背を預けたまま固まった財前の顔の横に手を付く。

 そうしてこの状況が、完成した。全く以って下らない。ただ、髪に触れた、それだけなのに。

「何、ですか。寝惚けてます?」

 ぎり、ときつい眦を更に億劫そうに持ち上げて、財前は精一杯のラインを引く。これ以上は入ってくるな、と威嚇の意を込めたラインだ。しかしいつだって引いて来たそのラインを、いつだって謙也は軽々乗り越えて財前の心を踏み荒らしていく。今日だって、そうだ。こうして閉じ込められた時から、本当は覚悟などとうに出来ていた。
 案の定、謙也は財前の問いを笑殺して、ゆっくりと頭を撫でた。先程財前が謙也の髪に触れた時よりもずっと、はっきりとした意思を持って動かされている手のひらの熱に身体が、熱くなる。どくりどくりと、心臓の音が耳元で聞こえて、咄嗟に素数を数えてみたけれどみっつ数えた辺りですっかり思考は飛んでしまった。何故ならば謙也が財前を真っ直ぐに覗き込んで、その額を財前の額とくっつけて、距離がゼロになったからだ。さらりと混じる金と黒のコントラストは、もう視界にすら入らない。触れた額から熱が、確実に伝わる。その事実に財前はこのまま溶けてしまえたら良いのにと非現実を思う。実際には、実現し得ない夢を。夢想する。

「何で逃げるん」
「逃げて、へんし」
「お前ホンマに、猫みたいや」

 額をくっつけたまま、謙也がくつくつと喉を鳴らして笑うから、振動が財前にも伝う。心底おかしい、と言った風に笑う謙也にすっかり毒気を抜かれてしまった財前は、囲われたまま肩を落として背を丸めて小さく息を吐いた。本当に、読めない人だと、思う。何がしたいのか分からなくて、財前はいつも振り回されてばかりなのだ。今も眼前で笑声を漏らす謙也を、財前は少し眉を下げて口端を擡げて、見詰めている。

「あ、」

 唐突に言葉が途切れて、謙也の手が財前の頬に触れた。今度こそ硬直した財前をそのままするりと撫でる。

「そんまま……笑てて。財前」
「何なんスか、急に」
「今、笑てたやろ?」

 無意識に零した笑みを指摘されて、財前は顔を逸らした。離れた手のひらの熱を勿体無いと、思うだけの余裕が心に生まれていることが救いだった。何も考えられなかったらきっと、このまま襟元を掴んで強引にキスの一つや二つ、していたかもしれない。と言うだけなら幾らでも言える。実際に行動に移す勇気は、まだ。

「笑てません。何言うてるんですか」
「はいはいー、まァそう云う事にしといたるわ。俺先輩やし」

 そう言って手のひらをひらりと翻す仕草は妙に芝居がかっていて、滑稽だ。いつの間にかロッカーについた腕は外されていて、逃げ出そうと思えばいつでもその腕をすり抜けることは出来たのだけれど、財前はそうしなかった。不思議と、心地好いこの空間の中でもう少し。もう少し触れていたいと、小さく笑みを、零した。
 遠くで最終の下校時間を知らせる音が、鳴り響く。





檻の中のねこ

09.00.00 H