久しぶり、だな。
玄関口でスニーカーを履きながら宍戸は思う。
『花火、見に行きませんか?』
去年の夏はあっと言う間に終わってしまっていて、気付けば花火も夏祭りも、全ては過ぎ去ってしまった後だった。周りを見る余裕などなかった。ただ、テニスだけが宍戸の世界でテニス以外に大切なものは他に無かった。
けれど今年は少しばかり勝手が違う。
勿論テニスは何を置いても先ず優先されるべき事項だ。けれどももう一つ、大切なものが増えた。認めたくは無かったけれど玄関の扉を開けてむっと広がる夏の終わりを吸い込めば、先のメールの送り主の遠慮がちな笑みが脳裏を過ぎる。
『七時に、いつものところで』
携帯電話を閉じポケットに突っ込むと、暗い闇が這うコンクリートの硬い道が眼前に広がっている。
待ち合わせ場所は走れば十五分掛からない距離だ。時刻は六時四十五分。宍戸は、とんと靴を一度鳴らすと、小さな声でよしと呟き駆け出した。
◇ ◇
「宍戸さんっ」
呼ぶ声に気付き振り返れば、ちょっと手を振る鳳が人ごみの中で笑みを浮かべていた。宍戸よりも十三センチも高い鳳は、夏祭りの人ごみの中でも人一倍目立つ。
にっこりと言うのが相応しいだろう満面の笑みを仰ぎ、宍戸もつられるようにほんの少し微笑む。不思議だった。こんな風に穏やかな時間を過ごせることも彼と二人でこんな場所に来ることを楽しんでいる自分自身も。
「遅くなって、悪かったな」
「いえいえ、ほら、今丁度七時ですから」
そう言って腕ごと差し出された鳳の腕時計を覗き込めばその通り時計の針が七時を指していた。どうやら間に合ったらしい。
「じゃ、行きましょう。少し歩くんですけど」
「ああ、いいぜ」
雑踏に紛れ込めば色の奔流に呑み込まれてしまいそうで宍戸は軽く首を振る。そうしたって、少し前を歩く背中は見失いようも無かったけれども。
「宍戸さんは、花火好きですか?」
唐突に振り返り問い掛ける鳳の隣に追いつき、同じ歩幅で人混みの中を歩く。ざわざわと耳を撫でる人の声は楽しそうだった。人々の笑声を受けて揺れる木々や震える空気。あちこちで聞こえる喧騒は試合の時とはまた違った昂揚感を齎す。
しかしその中に混じって聞こえる言葉の幾つかに宍戸は眉を顰める。ねぇ、あの人カッコよくない?声掛けてみない?と、弾んだ声は明らかに鳳に注がれているものだった。視線の先を追えば隣に辿り着く。本人は全く意に介していないようではあったが、隣を歩く宍戸は気が気ではなかった。ざわりと、蠢くのは恐らく己の奥底に押し込めていたはずの薄汚い、感情だ。
「宍戸さん?」
内省に感け、鳳への返事をしそこなっていたことに気付いた宍戸は慌てて鳳の背中を叩く。そしていつも通りを装って、声を上げて、ばーか、と言った声は、震えていない筈だった。
「好きじゃなきゃ、わざわざこんなとここねえよ」
「そっか、でも良かったです。ここの花火、すごいんですよ」
ほっと胸を撫で下ろす鳳を見つめて宍戸は苦笑した。
実はそれはほんの少しばかり嘘だ。
花火は確かに好きだったけれどそこまで好きな訳ではない。どうだって良いとは言わないが、普段ならばこの手の誘いは断っている。それでも今日ここに来たのは恐らくも何もなくただ、会いたいと思ったからに他ならない。会いたいと思った、だから花火を見ようと思った。何て本末転倒な思考。
こんな我侭な気持ちは今まで知らなかった。勿論、口に出すことなどできようも無いが。
「ここの花火、最後は空が真っ赤に染まるんです」
「真っ赤に?」
「そう、夕焼けみたいに、真っ赤に」
嬉しそうに話す鳳の横顔に光が走る。出店の光が過ぎった、ただそれだけのことだ。いつもと違うと感じたのは私服だからだろうかけれども。
「へぇ、そりゃ楽しみだな」
赤くなっているだろう頬を隠すために俯き宍戸は答える。純粋に興味があったからだ。なのに鳳は宍戸を覗き込み心底嬉しそうに笑った。こんな風に開けっ広げに向けられる好意に慣れていない宍戸は赤くなる以外にどうしていいのか全く分からなくなってしまう。
俯いたままの視線の先を赤い浴衣が翻り過ぎる。思わず顔を上げれば幸せそうな男女の二人連れが腕を組み通り過ぎ後姿が目についた。
友達と来ている人もいる。家族で来ている人も。そして恋人同士で来ている人も。
そうして考えてしまった下らないこと。
本当に下らない。
宍戸は溜息を吐いた。だって一体俺たちはどういう風に見えているのだろうだなんて、答えは判りきっている。
「宍戸さん」
堂々巡りの思考を打ち切るように顔を上げていつも通りを装い笑う。上手く笑えた、そう、思ったなのに。
突然握られた手。繋がる手のひら。
「ちょ、長太郎!」
「大丈夫ですよ。暗いし、誰も気にしてませんよ」
笑ったままでそっと囁くように告げられた言葉と伝わる熱に背筋が震えた。宍戸は何も言えずに深く息を吸った。
どうして、どうして。
考える。どうして求めている何かを眼前の年下の、少年は惜しげもなく差し出すのか。まるで心を読まれているかのようなタイミングの良さに面食らうが決してその手を離そうとは思わなかった。
暫しの逡巡の後に頷けば、鳳は笑った。本当に、嬉しそうな顔で。恥ずかしくてもう見ていられなくなった宍戸は人混みの中でそっぽを向きながら確かに手を繋いで、歩き出した。
そうして無言のままで歩む道は段々と人気の無いほうへと向かい、結局二人が辿り着いた場所には誰一人として居なかった。潰れた駐車場なのだ、当然のことなのかもしれない。
「ここか?」
「はい、誰もいなくて良いでしょう。あっほら、始まりましたよ!」
ドンドンと腹の底から抉られるような衝動を感じさせる花火が暗い空に打ち上げられる。鳳が指差した先で咲いた大輪の花は零れるように暗闇の中へと光の残像を残し溶けてゆく。
単純に感動して言葉すら忘れてしまった。宍戸は馬鹿みたいに口をぽかんと開けて眼前で惜しみなく晒されている光の洪水に魅入られてしまう。
「すごいでしょう」
「……すげぇ、な」
それ以外に何も言えず息を呑み空を仰ぐ宍戸を横目に見つめ、鳳はそっと笑みを零した。時間が惜しい。二人でいられる時間が限られているその事実がひどく悩ましいもののように感じられる。
どれだけそうして眺めていたのか分からない。二人の間に会話は無く、過ぎ行く風の音と響く花火の音と散る光だけが二人の世界を構成していた。
「あれ、もう終わりなのか?」
「ああ、休憩時間ですね。そうだ、アイスとか食べませんか」
崩れた車止めに腰掛けていた鳳が立ち上がり、問う。普段でさえ見上げなければならないのに、そうされればもう宍戸の視界には鳳以外映らなかった。
可笑しなことを考えながらもこくりと頷けば、じゃあ待っていてと言い残した鳳の背中がぼんやりと街灯だけが光る闇の中に沈んでゆく。
鳳は、本当に楽しそうに笑う。
宍戸は常々そう思っていた。いつだって向けられる笑顔は嘘偽りなどないようで、この笑顔を繋ぎ止めるためならば何だってできる気がしていたのは気のせいではない。自分だけのものになれば良いのに。いつしかそんな仄暗い感情すら抱いていることに気付いた時の恐怖感は未だに忘れることができない。
ああ、なんて浅ましい願いだ。
ああ、なんて浅ましい、自分。
「宍戸さん?」
覗きこまれてぼうっと物思いに耽っていたことを認識する。頬に触れたのはひやりと冷えたアイスクリームだった。覗き込む瞳の中に見つけたのは不安と心配で宍戸は苦笑すると少年の骨ばった手の中から冷えた塊を奪い取る。
「ぼーっとしてただけだよ。これ、サンキュ、な」
奪い様に触れた手。何度も何度も触れたはずのそれにぞくりと反応する。
己の手の中に在るアイスクリームは、恐ろしいほどに冷たかった。
◇ ◇
「最後のすごかったですよね」
鳳の声で我に返った宍戸が見上げた空には既に光など無く、まるで夢のように呆気無く世界はまた闇に覆われていた。
「え、あ、あぁ、キレイだったな」
生返事だということは理解している。どんなだったかすら分からない最後の花火に、感想など述べようも無い。これもまた半分は本当で半分は嘘だった。視線を足元に遣るのは真っ直ぐな眼差しを受け止めかねたからだ。痛い。突き刺さるような、視線が、痛い。
沈黙の隙間を縫うように遠くの方で聞こえるざわめきと虫の声。それから風が吹き荒ぶ音。無音ではない空間にけれど、確かに存在している己が分からなくなってしまいそうな錯覚に陥ってしまう。宍戸は膝の間に顔を埋めた。
「嘘、宍戸さん、後半殆ど見てなかったでしょう」
「……ワリィ」
髪に触れる指。いつもと変わりない優しい仕草。嘘など吐いたところで意味が無いことは今までの経験からもよく理解していた。どうしたって宍戸の嘘を見抜く。いつだって鳳には、ばれてしまうのだ。
「どうしたんですか、何か、気になることでもありましたか」
頷くことも否定することもできない。
そうではないと分かってはいても、言葉にすることは憚られた。だって理由を口にすることなどできようもない。何を考えていた下など、問われれば鳳のこと以外にありえない。
「宍戸さん」
何も言えず、頑なに口を閉ざす宍戸の頬に遠慮がちに触れた手。苦笑と共に零された言葉に、宍戸は思わず顔を上げた。
「帰りましょうか、今日は」
立ち上がる鳳の影が、落ちる。
「どうぞ」
差し出された手を、宍戸は掴めなかった。
掴んでしまえば、今日は終わってしまうから。
宍戸は瞼を閉じた。鳳の優しさが突き刺さる。痛みが胸中に去来する。素直に言葉を紡ぐことのできない己のもどかしさに、吐き気がする。躊躇をしてしまうのは未だに脅えているからだ。何に?宍戸は必死に問答を繰り返す。
けれど結局だから、いつでも大切なことは伝えられないままなのだ。
長太郎と離れたくない。
誰にも、渡したくない。
みっともないくらいに、羨んでいたのだと理解する。そうだ、聞こえてくる雑多な声に。飛び交う視線に。
聞こえてくる彼女たちの声は、至極素直で思うがままの心だった。なのに宍戸はいつまでたっても、言葉にすら出せないでいる。良いですよと、囁かれる甘い甘い、蜂蜜のような言葉に甘やかされて。
「宍戸さん?」
ほんの少しで良かった。ほんの少し、この声を伝えられたらきっと、何かが変わると分かっていた。そうあとほんの少しでいい、素直になれたなら。
「……まだ、もうちょっとだけ、さ」
服の裾を掴む。
羞恥で顔は上気しているだろう。まともに鳳の顔を見ることもできずに宍戸はそっぽを向いていた。それが精一杯だった。
鳳は、いままでにない宍戸のアプローチに驚きを顕わにして眼を瞠る。しかし次の瞬間、とてもとても、嬉しそうに、笑った。
ああ、
好きだ。
脈絡など無く、ただただ思った。
鳳の傍はいつの間にか宍戸にとって何よりも居心地の良い場所になっていた。離れられないのは自分の方なのだと瞬間、悟ってしまった。
長太郎。
ちょうたろう。
きっと気付いていないに違いないのだ。どれほどに、鳳のことを宍戸が考えているか。もういっそ、存在が傍に無ければ呼吸すらできないと思ってしまうほどに、好きなのだと鳳は思いもしないだろう。何故なら、宍戸はその感情の欠片も鳳に見せることをよしとしないからだ。
「宍戸さん、好きです」
「ん」
好きだとは言わなかった。
まだ言えないと思ったのだ。こんなにも自分ばかりが好きなのは本当に、本当に不公平なことだと思う。宍戸はざあと音を立てて木々を揺らした風の中でこの感情を吹き飛ばしてくれたらどんなにか楽になれるのにと考えた。けれどそれは全く以って無駄な思考に違いない。
「宍戸さん」
ふわりと、額に触れる柔らかな感触。
キスをされていたのだと気付いたのは、痛いくらいに抱き締められてからだった。
「何かあったら、絶対に俺を呼んで下さい」
それは宣誓。
キスに誓う宣言。
何時にも増して真剣な表情で鳳が口にした言葉は、宍戸の鼓膜に浸透する。
「必ず、飛んで行きますから」
今度は唇を塞がれて、その瞬間にやっと宍戸は、この年下の男に囚われてしまっていたことを理解した。蜘蛛の糸に掛かってしまった羽虫のように。もう逃げられないと、唐突に理解した。
そしてその幸福に瞼を閉じれば鮮やかな、花火の光が散った。
鮮やかな夏の残像
07.12.25 (03.8-10) H